バーミアン(アフガニスタン) [西南アジア一人旅]

カブールからバーミアンへ向かうバスは混雑していた。
前の方はヨーロッパからの旅行者
後ろの席はアフガニスタンの人たちで占められていた
バスはカブールの市内のバス停を何カ所も経由してバーミアンに向かうのだが
運転主の隣の席が常に空いていた。
とある停留所でヨーロッパ人の若い女性が
その席を使わせろと言い出し、同調した欧米人が口々に運転手に文句を言い始めた。
”ここは、予約席だ!”運転手は答えたが
欧米人の旅行者達は騒ぎ始め、最初の若い女性が客席のほうに向かってアジリ始めた。
白人たちの拍手と歓声
バスは騒然となった。

”You European Shut up!!  ヨーロッパ人黙れ!!
You must obey Afuganisutans rule and manner!! お前らアフガニスタンのルールとマナーを守れ!!
We Japanease obey     ここはアフガニスタンやぞ! 
because Here is Afuganisutan    ヨーロッパでも、アメリカでもないんや!
Not Europe! Not America!"   日本人は従うぞ!

外国へ来てまで、勝手なことをいう欧米人
思わず僕は叫んでいた。
アフガニスタンの人々から
巻き起こる歓声
こうして騒ぎは収まり
僕は後ろの方の席に向かい容れられ
何事もなかっように
バーミアンに向かってバスは走った。

想いは時を超え
アレキサンダー大王の時代へ
ガンダーラの時代へ
蒙古帝国の時代へ
多くの民族の戦いの歴史
蹂躙され続けたアフガンの地
・・・・・
目の前に広がるのは
荒涼とした大地
僕はただ
バスの外を
見入るのみだった。

バーミアン遠謀trm..jpg

1978年3月 共産党によるクーデターはまだ起こっておらず。
それを契機とした、その後のアフガニスタンの激動は知る由もない。
バーミアンの石像・大仏がタリバーンによって破壊されるなんて・・・・

バーミアンの光景は
荒涼としていて美しく
ここが天竺だったんだと僕は確信した。

バーミアン子供trm..jpg

バーミアン商店trm..jpg

荒々しく無骨で精悍なアフガニスタンの人たち
でも、子供や小鳥を見る眼差しはとても優しい
バーミアンの商店の人たちも
都会の人と比べると表情は
とても穏やかであった。

バーミアン大仏1978trm..jpg

バーミアン大仏19782trm..jpg

小高い丘から眺める
バーミアンの大仏
11世紀に偶像崇拝を禁止するもイスラム教徒によって顔面が
剥ぎ取られたという
仏教が消えた後は偶像としての意味はなく
遺跡として保存されていた。

バーミアン大仏19784trm..jpg

バーミアン大仏19785trm..jpg

近くから見る大仏は大きく
威厳があり
ただ圧倒されるばかりであった。

序文 [西南アジア一人旅]

このところ動けません。
ぎっくり腰です。
その痛みをとろうと、過激な腰痛体操をしたのも
まずかった。
新たに膝から腰にかけて激痛が走るようになりました。
膝のどこも悪くないので
ぎっくり腰によって、神経がどこかにあたって
痛みを感じているに違いありません。
座っていても痛い
ひりひり痛みます
たってると少しましだが、すぐ痛くなる
横になると痛みに拍車がかかる
という訳で眠ることが出来ません。
これは辛い
なんせ、痛いと感じる場所はなんともないのだから。
痛む場所にシップを張ったって意味がない。
今朝は妻に連れられて病院にいって来ました。
妻はペーパードライバー
タクシーで行こうといいましたが
これでも僕は元山屋
歩いていくと言い張って
行って来ました。
10分で行ける所を50分もかけて
これは”ほんま”に”きつかった”
診断はやっぱり”ぎっくり腰”
ヘルニアと診断されなくて良かった。
コルセットを装着され
痛み止めを渡され終了
帰り道も、つらかった。

ということで、当分野鳥撮影は出来ません。
次回、数年ぶりに
西南アジア一人旅の記事をランダムにアップしたいと思います。

もう遥かな昔のことです。
記憶も少しずつ薄れていきます。
一人でネパールからインド、スリランカ、パキスタン、アフガニスタンを彷徨った事がありました。
学生時代の仲間の自死
僕はそれから3年の間、悶々としながらお金を貯め
そして遂に、それまで働いていた会社を辞め
世界に飛び出したのです。
1977年秋のことです。 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。